バリトンサックスという楽器は、音が低く重いため、「ゆっくり、どっしり」というイメージで語られることが多い。しかしペッパー・アダムス(Pepper Adams, 1930–1986)の演奏を聴けば、そのイメージは一瞬で覆る。
彼のバリトンは鋼鉄のように硬く、嵐のように速く、そして一音ごとに相手の皮膚を切り裂くような鋭さを持っていた。だからこそ、彼のニックネームは "The Knife"(ナイフ)——共演者を圧倒する技術的切れ味から、仲間たちがそう呼んだ。
生涯と形成的背景
ミシガン州ハイランドパーク生まれ
パーク・フレデリック・アダムス三世(Park Frederick "Pepper" Adams III)は1930年10月8日、ミシガン州ハイランドパークに生まれた。大恐慌(世界恐慌)の直後という時代の影響もあり、幼少期は経済的に厳しく、家族は各地の農場を転々とした。
「ペッパー」というニックネームは音楽とは関係ない。ニューヨーク州ロチェスターにいた中学時代、セントルイス・カーディナルスの元選手ペッパー・マーティンがロチェスター・レッドウィングスの監督として就任した。アダムスと見た目が似ていると言われたクラスメートたちが「ペッパー」と呼びはじめ、その名が生涯定着したのだ。
テナーサックスからバリトンへ
アダムスは少年期、テナーサックスとクラリネットを学び始めた。彼の音楽的発展に深く影響したのは、ラジオから流れてくるフレッチャー・ヘンダーソン楽団、デューク・エリントン楽団、キャブ・キャロウェイ楽団の音楽だった。
1943年、13歳のときに転機が訪れる。アダムスは学校を1週間サボって、デトロイトにデューク・エリントン楽団のコンサートを聴きに行った。そこで彼はバリトンサックスを吹くハリー・カーネイと直接出会い、言葉を交わした。エリントン楽団のテナー奏者スキッピー・ウィリアムスからレッスンを受けたことも、この時期のアダムスのバリトンへの傾倒を深めた。
デトロイトという「熱い学校」
1947年、アダムスはデトロイトに拠点を移した。デトロイト——ここは1950年代のジャズシーンで「熱い学校」と呼ばれた場所だ。のちに世界的な名手となる:
- エルヴィン・ジョーンズ(ドラムス)
- サド・ジョーンズ(トランペット)
- トミー・フラナガン(ピアノ)
- ドナルド・バード(トランペット)
- ハンク・ジョーンズ(ピアノ)
これらの後に大成した名手たちと、若いアダムスはデトロイトのクラブ(特に「Blue Bird Inn」)で毎夜しのぎを削り合った。この濃密な競い合いが、アダムスの「鋼鉄の技術」を鍛え上げた。
1948年、アダムスはグリネル楽器店での従業員割引を使って新品のSelmer "Balanced Action" バリトンサックスを購入。このホーンは後に30年以上彼のメイン楽器となる、伝説の一本だ。
"The Knife"——ニックネームの由来
スタン・ケントン楽団での「洗礼」
1956年、アダムスはデトロイトを離れ、スタン・ケントン楽団に参加する。ケントン楽団はビッグバンドの中でも特に実力者揃いで知られていた。そこでアダムスが演奏をはじめると、同僚のソロ奏者たちは衝撃を受けた。
アダムスのアプローチは他のバリトン奏者とまったく異なっていた。コード進行の隅々まで音を詰め込むような密度の高いラインを、正確なタンギングで「一音一音を叩き切る」ように吹く。その様子を見た同僚たちは「彼は俺たちを切り刻んでいる(carve up)」と言い、"The Knife"というニックネームがついた。
アダムスの音楽的伝記家ゲイリー・カーナーは、そのスタイルを「非常に長く、転がるような、ダブルタイムのメロディーライン。そして生の、突き刺さるような、吠えるような音色」と形容している。まさに「ナイフ」という言葉がぴったりの、攻撃的な知性だ。
ニューヨーク時代——チャールズ・ミンガスとの出会い
「Blues & Roots」の咆哮
ケントン楽団を経てニューヨークに拠点を移したアダムスは、1959年にチャールズ・ミンガスの「ジャズ・ワークショップ」に参加する。その成果が『Blues & Roots』(Atlantic, 1959年)だ。
このアルバムに収録された「Moanin'」でのアダムスのバリトンソロは、まさに「咆哮」という言葉がふさわしい。バリトンをアルトのように軽快に吹くマリガン・スタイルとは対極——重い低音を武器に、フレーズの一音一音が「叩きつける」ように迫ってくる。
ミンガスはアダムスの演奏を高く評価し、アダムスもまたミンガスの音楽に強く共鳴した。後年、アダムスはミンガスの楽曲を演奏したアルバム『Plays the Compositions of Charles Mingus』を残している。
ドナルド・バードとのクインテット(1958〜1961年)
デトロイト時代からの盟友ドナルド・バード(トランペット)とクインテットを結成し、Blue Noteレーベルに重要な録音を残した。
- 『10 to 4 at the 5 Spot』(Riverside, 1958年)——エルヴィン・ジョーンズが参加した稀有な録音
- 『Byrd in Hand』(Blue Note, 1959年)
- 『At the Half Note Cafe』(Blue Note, 1960年)——ライブ録音の名盤
この時期のアダムスとバードのコンビは、ハードバップの「ニューヨーク正統派」として高い評価を得た。
Thad Jones/Mel Lewis Orchestra——11年間の定宿
ビレッジ・ヴァンガードという「定宿」
1965年、アダムスの音楽人生を決定づける新たなステージが始まった。サド・ジョーンズとメル・ルイスによるThad Jones/Mel Lewis Big Bandの創設メンバーとなったのだ。
このビッグバンドは月曜日の夜、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジにある老舗クラブ「ビレッジ・ヴァンガード」で定期演奏を続けた。アダムスは1976年まで、このバンドに在籍した。
ビッグバンドにバリトンが一本いるとき、その奏者の仕事は多岐にわたる。サックスセクションの土台として低音を支えながら、ソロでは個人の声を放つ。アダムスはその両方を最高水準でこなした。特にソロでは、あの「ナイフ」の切れ味がビッグバンドという大きな音の壁の中でも埋没することなく、鮮烈に際立った。
ダウンビート1位を奪取した瞬間
1979年から1982年まで、国際ジャズ評論家投票でバリトン部門1位に4年連続で輝き、1982年12月のダウンビート誌読者投票ではついにジェリー・マリガンをバリトン部門で破り1位を獲得した。マリガンが1953年から続けてきた長年の連続1位を崩した瞬間だった。
音楽的スタイルの解剖
「スラッシング・アンド・チョッピング」——切り刻む技術
アダムスの奏法を一言で表すなら「スラッシング・アンド・チョッピング(切り刻む・叩き切る)」だ。コード進行の限界まで音を詰め込んだフレーズを、正確なタンギングで一音一音鋭く発音する——これはバリトンサックスで行うには相当な技術が必要だ。
バリトンはアルトやテナーより管が長く、息の量も多く必要で、フィンガリングも難しい。これほど速く、これほど密度の高いフレーズを「正確に」吹くためには、並外れた技術と体力が求められる。アダムスはそれを日常的に演奏していた。
ハードバップの「定義者」として
マリガンのクールジャズが「知性と透明感」を旗印にするなら、アダムスのハードバップは「情熱と攻撃性」を旗印にする。両者の音楽的哲学は対極にあるが、どちらもバリトンサックスの可能性を異なる方向から拡張した。
アダムス自身、ジャンルや「売れる音楽」のためにスタイルを変えることを頑なに拒んだ。「音楽的表現に集中したグループで演奏するという選択をしてきた。お金が高い仕事のためにスタイルを変えることはしなかった」と振り返っている。その純粋さこそ、アダムスの音楽が今も輝き続ける理由だ。
バラードもできる「万能選手」
アダムスは「硬い音で速く吹く」だけの奏者ではない。チェット・ベイカーのアルバム『Chet』(1958年)収録の "Alone Together" でのアダムスのバラード演奏は、批評家から「アルバムのハイライトの一つ」と絶賛された。攻撃的なハードバッパーの顔と、繊細なバラード奏者の顔——両方を持っていたのがアダムスだ。
これを聴け!名演ガイド
1. 「Moanin'」 on 『Blues & Roots』— 咆哮するバリトン
収録アルバム:チャールズ・ミンガス『Blues & Roots』(Atlantic, 1959年)
ミンガスの名曲「Moanin'」でのアダムスのソロは、ハードバップ・バリトンの「最高の教科書」だ。音が低く、重く、そして鋭い——この矛盾するような音の組み合わせが、アダムスのサウンドそのものだ。初めてアダムスを聴く人は、まずこの一曲から。
2. 『10 to 4 at the 5 Spot』—デトロイト派の夜
収録アルバム:Donald Byrd and Pepper Adams Quintet 『10 to 4 at the 5 Spot』(Riverside, 1958年)
共演:ドナルド・バード(tp)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)他
エルヴィン・ジョーンズのドラムとアダムスのバリトンが火花を散らすライブ録音。デトロイト派の「ハングリーさ」が収録されている。バード、アダムス、エルヴィンというメンバーの組み合わせが奇跡的な熱量を生み出した。
3. 『Conjuration: Fat Tuesday's Session』—晩年の傑作
収録アルバム:『Conjuration: Fat Tuesday's Session』(Reservoir, 1983年)
共演:ケニー・ウィーラー(tp)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)他
晩年(1983年)の録音で、Grammy賞にノミネートされた名盤。アダムスの「円熟したナイフ」が聴ける。若い頃の攻撃性に加え、深みと包容力が増した演奏は、「時間をかけて技術を磨き続けることの価値」を体現している。
4. Thad Jones/Mel Lewis Orchestra の各種録音
推薦盤:『Live at the Village Vanguard』(Solid State, 1967年)
ビッグバンドの一員としてのアダムスを聴きたいならこれ。バンド全体の中でバリトンがどう機能するか、そしてソロでどう「個」を主張するかが体感できる。ビッグバンドのバリトン奏者にとってこれほどの教材はない。
機材とセッティング——32年という「執念」
| カテゴリ | 詳細 |
|---|---|
| 楽器(1948〜1980年代) | Selmer "Balanced Action" E♭バリトンサックス(1948年購入) |
| マウスピース(1948〜1980年6月5日) | Berg Larsen メタル |
| マウスピース(1980年6月5日以降) | Dukoff D-5(Berg Larsen 破損後) |
| リード | 晩年はBari プラスチックリード(合成リード)を愛用 |
Selmer Balanced Action — 30年以上の「相棒」
アダムスが1948年に購入したSelmer "Balanced Action"は、当時は「新型」だったが、後に「クラシックなヴィンテージ楽器」となったモデルだ。彼はこのホーンを1978年に新しい楽器を購入するまでメインとして使い続け、さらに最終的に交替したのは1980年代——実に30年以上の付き合いになる。
現代の奏者が頻繁に楽器を買い替える時代の感覚からすると、「同じ一本を30年使い続ける」というのは信じがたいことだ。しかしアダムスにとって、楽器は「道具」ではなく「声」だった。自分の声(楽器)を変えることなく、その中で技術と表現を深め続けた——それがアダムスの流儀だった。
Berg Larsenメタルが壊れた日——1980年6月5日
アダムスのセッティングにまつわるエピソードの中でも最も有名なのが、「Berg Larsen破損事件」だ。
アダムスは1948年頃からずっとBerg Larsen メタル・マウスピースを使い続けていた。硬質でエッジのある、まさに「ナイフ」の音色を作り出すメタルピースだ。そして1980年6月5日——32年間使い続けたBerg Larsenが、ついに破損した。
その翌日、アダムスはワシントンD.C.の「One Step Down」でのライブを控えていた。代替として選んだのがDukoff D-5で、それ以降はBari社のプラスチックリード(合成リード)と組み合わせて使用した。
この「日付まで特定された逸話」は、アダムスの機材への向き合い方の純粋さを示している。多くの奏者が年々機材を変え試行錯誤する中で、アダムスは「これだ」と決めたら徹底的に使い続けた。
Berg Larsen メタルがどんな音のするマウスピースかについては「バリサクのマウスピース遍歴」を参照してください。
ジャズ史における位置づけ
マリガンとの「両極」——バリトンの可能性を二方向に開いた
アダムスとマリガンは生涯、バリトン界の「双璧」として語られてきた。マリガンが「クール/ウェストコースト」の美学を代表するなら、アダムスは「ハードバップ/ニューヨーク」の美学を代表する。
この二者が同時代にバリトンを吹いていたことで、バリトンサックスの音楽的な「幅」が一気に広がった。「バリトンとはどんな音であるべきか」という問いに対して、「こういう音もある、ああいう音もある」と二つの鮮やかな答えが用意されたのだ。
「広く認知されるべき才能」
アダムスは優れた奏者であるにもかかわらず、マリガンほどの大衆的な知名度を持たなかった。それは彼が「売れる音楽」に妥協せず、純粋に音楽的表現を追求し続けたからだ。
Down Beat誌の「才能あるが広く知られていない(Talent Deserving of Wider Recognition)」部門に長年選ばれ続けたことは、皮肉でもあり同時に誇りでもある。ハードバップの信念を曲げなかった代償として、「知る人ぞ知る存在」で終わった——それがアダムスの生き方だった。
晩年と最後のステージ
病と闘いながら吹き続けた
1983年12月、自家用車のブレーキが外れてガレージで足を挟まれ、5ヶ月間ベッドで過ごさなければならない重傷を負った。1985年3月にはスウェーデンで肺がんと診断される。放射線治療を受けながらも、アダムスは演奏をやめなかった。
1986年7月2日——これが最後のライブとなった。モントリオール・ジャズ・フェスティバルのスペクトラムでの演奏後、観客は総立ちで拍手を送り、アダムスは最初の曲のカウントを自ら行った。
1986年9月10日、ブルックリンで肺がんのため55歳で逝去。42曲の自作曲、リーダーとして18枚のアルバム、600回以上のサイドマン参加——これがアダムスの遺産だ。
バリトン奏者として、アダムスから学べること
1. 「攻撃性」は技術の裏付けがあってこそ
アダムスの「ナイフ」的な演奏は、見た目の激しさとは裏腹に、極めて精緻な技術に支えられている。音の速さ、コードへの密度、タンギングの正確さ——これらすべてが「攻撃的に聞こえる」前提として存在する。「荒く吹く」ことと「アダムスのように吹く」ことはまったく別物だ。
2. 機材への執着は「妥協しない」姿勢の現れ
Selmer Balanced Actionを30年以上、Berg Larsenを32年使い続けたアダムスの姿は、「ベストの機材を探し続ける」のではなく「自分の機材を極限まで使いこなす」という別の道を示している。あなたが今持っているバリトンとマウスピースで、まだできることがあるはずだ。
3. バラードこそ奏者の「素顔」
アダムスのバラード演奏は、彼の「もう一つの顔」だ。速いフレーズを吹ける奏者は多いが、バラードで「本当に歌える」奏者は少ない。アダムスは両方できた。バリトン奏者として、まずゆっくりとしたバラードで自分の音色と歌い方を磨くことは、テクニックを磨く以上に大切な練習だ。
4. スタイルを貫く「勇気」
フュージョンやポップの時代にも、アダムスはハードバップから外れなかった。そのために経済的には恵まれなかった面もあるが、彼の音楽は今でも輝きを失っていない。「自分の音楽に正直である」というアダムスの姿勢は、すべての音楽家への力強いメッセージだ。
まとめ
ペッパー・アダムスは「ナイフ」というニックネームが示す通り、バリトンサックスの世界に「切れ込む力」をもたらした奏者だ。デトロイトで鍛えた技術、ミンガスとの共闘、Thad Jones/Mel Lewisでの11年、そして終始妥協しなかった姿勢——それらが合わさって、彼の音楽は時代を超える。
Selmer Balanced Action と Berg Larsenメタルが生み出した「鋼鉄のバリトン」は、マリガンの「軽やかなバリトン」と双璧をなして、この楽器の可能性を二方向に拓いた。バリトンを吹くなら、必ず一度はアダムスの「ナイフ」に切り込まれてほしい。